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【調査】織田信長ローマ法王に献上した安土城屏風、1592年まで7年間バチカンに収蔵──現地で邦人研究者ら調査

 
 
1 :丑幕φ ★ :2007/02/11(日) 09:44:00  

織田信長からローマ法王に贈られた安土城の屏風絵を捜すため
ローマに滞在中の若桑みどり千葉大名誉教授らは9日、屏風は1592年までの7年間、
バチカンに収蔵されていたことが分かったと発表した。

屏風は伊東マンショら少年4人の天正遣欧使節が1585年3月、当時の法王グレゴリオ13世に献上したが、
現在は所在が分かっていない。
今回の調査で、1592年7月13日にベルギー人の骨董収集家ウィンゲが、
バチカンの「地図の画廊」で屏風をスケッチしたことが、ウィンゲの書簡から分かった。
 
18世紀にフランスのイエズス会士が出版した本には安土城の絵が載っており、
屏風が法王からの贈り物としてフランスに渡った可能性もあるという。
ttp://www.nikkei.co.jp/kansai/news/38295.html

5 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 09:47:46  
「献上」?  信長がいつローマ法王の手下になったんだ?
 
7 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 09:52:36  
>>5 安土の小泉だからな
 
9 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 09:56:50  
>>5 この当時の日本なんてヨーロッパ人から見ればただの土人でしかないから当然だろ
 
11 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 09:59:26  
>>5 かと言って下賜というわけにもいかんだろう。
他国の貴人に物品を上げるときは普通献上と表さないか?
 
14 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 10:02:42  
織田信長といえば自らを第六天魔王と名乗った人
そして現ローマ法王ベネディクト16世と言えば
ttp://blog3.fc2.com/m/mizuho14/file/20051029221724.jpg
ttp://blog3.fc2.com/m/mizuho14/file/20051029221734.jpg
(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
 
15 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 10:10:53  
なんかよくわからん。
天正遣欧使節って大友宗麟大村純忠有馬晴信の名代として
派遣されたのになんで信長がローマ法王に屏風を贈ったって話になるんだ?
九州は織田信長の勢力圏じゃなかったはずだしどういう関係があるんだ?
 
18 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 10:18:08  
若桑みどりが関わってるということは、これはジェンダーフリーと関係があるの?
 
19 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 10:27:06  
>>15 当時大友は島津、竜造寺に押されっぱなしで織田に援軍を催促しまくってた
信長が本能寺で死なずに、毛利倒して九州行ったら大友は配下になってた
スポンサーみたいなもんじゃね? 多分
 
25 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 10:40:18  
7年しか置いておかなかったのかバチカン
もらい物を贈り物にするなんて失礼じゃないかね。
 
29 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 10:44:37  
>>9 戦国末期から江戸時代初期の日本は当時世界最強の陸軍国といってもよい。
 
30 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 10:45:37  
日本の戦国大名は遠近関わらず、どことでも信書や贈り物のやり取りしてるのが普通なんだけど。
 
35 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 10:48:48  
若桑みどりさんの大著『クアトロ・ラガッツィ―天正少年使節と世界帝国』は文句なく面白いよ。
小ネタ満載で。
 
38 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 10:50:47  
信長がなんとかしてキリスト教に気に入られようとしてたってテレビでやってたな
でも譲れないところは譲らず、中国を占領してキリスト教化したいから派兵しろって要請を蹴って
決別直後に本能寺
後をついだ秀吉が、朝鮮経由で中国を目指そうとするも敗退と
 
43 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 11:02:09  
>>38 まだ九州も中国も関東も東北も残ってるのに中国に派兵しろってwww 無茶言い過ぎだ。
 
44 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 11:04:23  
>29 局地戦限定って感じもするが。兵站のヘボさは300年以上経っても解消されなかったし。
 
45 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 11:05:31  
>>29 軍隊が強いことと野蛮人であることは対立しません
まぁ強いといっても中国を支配すらできないけどな
 
48 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 11:07:18  
ルーベンスの描いた宗麟はラインハルトみたいだお。
 
52 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 11:12:05  
>>44 豊臣秀吉と彼の官僚団の兵站能力はたいしたもんだと思うけど。
大陸派遣軍を維持できたんだぜ。
 
56 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 11:17:11  
これTBSの特集番組で探しに行った企画だろ?
しかも毎日予告CM必死にやったあげく見つかりませんでした、っていう糞番組
 
57 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 11:18:24
>>45 当時の軍隊はすでに筋肉馬鹿では運営できないレベルだがね。
 
60 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 11:22:13
>>56 いつものTBSじゃないか
法王グレゴリオ13世の末裔というのが出ていたが、法王に子どもがいる点には深く触れずw
 
64 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 11:23:47
>>19 信長は安土城を見物に来たヴァリニャーノに屏風をあげたの。
おそらく信長は宣教師からローマに屏風が渡ることを期待したんだろう。
そんで日本にも西欧に匹敵する建造物があることを自慢したかったんだと思う。
んでたぶんヴァリニャが日本人がローマに行くという話を聞いて
その一行についでに持たせたんだと思う。
 
65 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 11:25:16
織田が種子島使ってから鉄砲が日本では鉄砲が急速に普及して
当時世界で断トツの鉄砲の所有国であったとどっかで読んだことがある
だれかソースもってない?
 
70 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 11:28:38
銃器の一斉射撃を世界で初めて行ったのは、長篠の戦い
西洋ではこれから50年後に一斉射撃が起きた
 
73 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 11:42:12
>>65 いや信長以前も普及してたし  そもそも本願寺の方が上だったるするし
むしろ合理主義がすごかったんんだろうが
せっせと野戦陣地 構築するのに土木工事するのも戦国後期には一般的になってたし
 
75 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 11:49:40
>>60 ヒント:法王になれるのは、かなり歳をとってから。
         そして、若い頃は一般人だった神父は結構いた。
 
78 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 11:50:12
>>73 鉄砲の効果的な運用という面では本願寺が上だよなあ。
本当にやったのかと疑問符をつけられてる信長の三段撃ちより
本願寺(雑賀)の組撃ちの方が速いのは確実。
 
80 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 11:53:27
長篠の戦い(鉄砲三段)や比叡山焼き討ちも実際あったかどうか確定してないよん。
 
83 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 11:55:41
信長が殺されなかったら、日本はフィリピンの道を歩んだ。
 
84 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 11:58:31
長篠の戦いは柵に鉄砲って屏風が有名だが実際はあんなことにはなってないって説もある。
 
織田連合軍が6000武田軍が12000の戦死者がでて武田重臣の大半も討ち死といわれるまさに決戦であったが
陣築かれて鉄砲でたこ殴りにされたら普通は逃げる。
鉄砲も3000丁あったかどうかも怪しいといわれてるし
もっと敵味方入り乱れての乱戦だった可能性が高いと思う。
 
87 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 12:04:12
>>83 スペインの植民地になったってか? わけ分からん。
文禄・慶長の役とか関ヶ原とか大阪夏の陣とかから勘案すると、
当時の日本は20万〜30万ちかい兵力を持っていたわけだが。
スペインからそれを上回る兵力を極東まで持ってくることができるとでも?
 
97 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 12:16:39
織田信長...たしかに日本人離れした異才だったよね。
聖徳太子同様に時々桁はずれの人が登場するから日本はあなどれん。
 
98 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 12:17:53
日本史の中で本当に革命児といえる人ってのは、信長か龍馬かと思う。
 
104 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 12:28:54
>>83 信長が健在であれば、対外侵略で富を蓄える道を選んだってことだね。
たしかにスペインは栄えたが、文化的には拡散してしまい、植民地を失った後、
民族的な気力が衰えて世界に影響を与える国ではなくなっていった。
一方、日本は秀吉の失敗後、対外侵略をあきらめ
国内で独自の日本文化を発展させていき、世界の中でも存在感がある。
 
107 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 12:32:55
>>98 信長は文句なしに日本史上空前絶後キチガイだが、
龍馬については司馬遼太郎のプロデュースによって人物像が禿しく肥大している。
 
108 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 12:40:36
>>84 鉄砲で撃たれたら逃げるというのは後世の人間だからいえることであって、当時は騎馬軍団が最強だった。
歩兵は10倍の人数がいても騎馬に蹂躙されたらあっという間に総崩れになるほどの威力だった。
圧倒的に強いだけでなく、速度があるので戦闘の状況に応じて、複数の戦場に介入でき、
戦いの主導権を握ることができる。
 
ところが、それほど恐れられてた騎馬軍団を鉄砲の集中運用で食い止めたのがキモ。
実際は撃ち殺したというより音で馬が驚いて立ち上がってしまったという説もあるけど、
とにかく防衛線を抜かれなかった。
それによって武田は目算が狂い、合戦に負けてしまったわけだ。
 
113 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 13:06:40
>>108 一応軍馬の改良にせっせと輸入したにもかかわらず 
遊牧民みたいな畜産の知識が根本的に欠けてて
ポニーサイズの馬しか量産出来なかったのは定説じゃないの?
 
114 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 13:07:39
>>108 この戦いはむしろ兵力差>鉄砲では?
武田の死者の多くは柵からかなり距離がある地点で討ちとられている。
確か鉄砲で撃たれて死んだのは山県と土屋くらいのはず。
開戦頭の斉射以降は両軍入り乱れた通常の野戦に以降したと考えるのが妥当ではないか。
 
巷で言われているような効果を鉄砲が発揮したとすれば、織田徳川の死者が多すぎる。
武田の騎馬隊というのは前近代的な半騎兵だろう?
 
115 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 13:07:58
長篠の三段撃ち = 黒澤映画の影響
実は黒澤は影武者以前の白黒時代の映画でも三段撃ちの場面と登場させてる。
で黒澤が三段撃ちの着想をどこから持ってきたかというと陸軍の従軍経験があったからだとも。
あと武田騎馬隊がアラブ系なんかの体躯が大きくて速度が出る馬に乗ってたというのも疑問。
だから一気に片がついたんじゃなくて、
どちらかというと川が無い姉川の戦いのような白兵戦にもつれて込んだという説に一票。
 
116 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 13:08:54
>>108 長篠の戦って山県が有名だから馬防柵に突撃して死んだイメージが強いけど
実際には敗走時に多くの武将が死んでるんだよ?
第一、騎馬の割合がどの程度だったかなんてわかってないし。
 
118 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 13:10:41
>>108 今は騎馬軍団の存在すら疑われております。
当時の武田家の軍制では、騎馬武者一人に複数の郎党(もちろん徒歩)が付く形が
最小単位だったので騎馬武者ばかりの部隊編成は不可能だったとみられているようです。
 
119 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 13:14:21
>>115 黒沢監督でも馬だけはいっぱい用意できなかったんだよぉ・・・・。
ラストサムライみたいに背の低い日本の馬で撮影したかったんだが、
雲の形や虫の動きまでこだわる監督も、手に入らないものだけはどうしようもなかった。。。。
と、後にいっとったはず、
 
122 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 13:16:30
>>84 設楽が原ではたいした数は死んでいなくて、ほとんどが混乱した敗走中。
だから、有名な武将がやられてしまった。
 
>>118 実質は、騎馬中隊だったね。 しかし数頭の馬にびびって、足軽がこわくなって逃げてしまう。
武田の戦術は騎馬によるこけおどしなので、ばれないように敵陣に突入する時は馬から下りていたらしい。
 
125 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 13:19:27
欧米では「キリスト教を受け入れ、宣教師を優遇した唯一の日本国王
(実際は国王では無いが)として人気がある。
だからフィギュアの織田がカナダ大会に出た時にかなり話題になった。
信長の後キリスト教徒が弾圧されたのもあって神話になってる。
 
127 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 13:20:52
>>14 第六天魔王は善だぞ。 わざと悪い事をして、善に目覚めさせようとする者だ。
あかおにどん と あおおにどん みたいな物質界の最高位の香具師
 
128 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 13:22:06
>>125 信長にとって宗教は道具に過ぎなかったと思うんだがどうか。
一般にはそういったものを毛嫌いしてるイメージはあるが、
実際のところ部下がどんな宗教信仰してても差別してなかったみたいだし
 
133 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 13:25:34
大坂の本願寺を攻撃したのは、海運利権が欲しかっただけだからなぁ… 織田家日蓮宗だし
 
136 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 13:29:09
宗教が力(権力と軍事力)を持つことを否定しただけで別に宗教そのものを否定したわけじゃないからな
焼き討ちも武装カルト集団をつぶしただけだし
 
137 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 13:32:39
本願寺焼き討ちで女子供をも殺したと書いてるが、女人禁制の本願寺にいるわけがないんだよね^^
と皮肉たっぷりに日本史の先生が言ってた
 
138 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 13:35:08
>>133 信長も日蓮宗の熱心な信者ならそれこそ宗教的な理由でも本願寺焼き討ちにしそうだがw
 
140 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 13:37:40
>>137 比叡山と混同してない? 一向宗は妻帯可能だったろ。
 
142 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 13:38:19
比叡山だっ、失敬
 
143 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 13:40:27
実際の本願寺は、騙まし討ちの連続だったらしいね。 和睦しても、破るのは信長ではなく本願寺
 
144 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 13:43:49
当時の比叡山はもーどうしようもなかったから女子供が居てもおかしくないな。
そもそも女人禁制なんてこと守るくらいなら、幕府や朝廷と対立したりしないって。
 
147 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 13:55:32
>>137 延暦寺本願寺を間違えてんじゃねー!
 
149 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 14:00:11
>>70 鉄砲運用で有名な戦いならチャルディラーンの戦いがある
オスマン朝の鉄砲隊がサファヴィー朝の騎兵隊を破った戦いだな
ヨーロッパだと1420年から1434あたりに起こったフス戦争が古い鉄砲使用の有名な例かな
バリケードと鉄砲を使って十字軍を農民兵が破っていった戦争
 
>>119 黒澤監督が博物館から貴重な鎧を飾るだけって借りて、役者に着せたから
博物館側がキレたそうだな
  
>>127 あれはそもそも信玄との書状でのハッタリのやり合いの文脈で出てきたものと聞いたが
 
150 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 14:05:00
比叡山焼き討ちも実際は怪しいんだけどね。 そういう風説わざわざ流した可能性すらある。
堂宇の焼けた遺跡が全く出てこないんだよ。
 
151 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 14:27:11
当時の日本の人口は、スペインやポルトガルよりも多かったと推定されています。
日本側の動員兵力は、隣国大名との戦だと、1万石につき250人程度とされているが、
遠隔地に動員する場合だから半分の125人とすると、日本全国1800万石で22万5万人。
これに対し、スペインやポルトガルは、2〜3万人の派遣がせいぜいと言われています。
武器についても、信長や秀吉時代の鉄砲は、日本、ヨーロッパとも大差なく、
ヨーロッパの大砲も鉄球を飛ばすだけの破壊力のないものです。
兵隊の数がけた違いに少なく、武器に大差なければ、戦なれした日本人相手に勝利を収め、
日本を占領することなど無理でしょう。
 
152 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 14:35:48
>>125 宣教師が遊郭から身受けした女郎や、"海外留学"と称して連れ出した子息を南蛮人達は
奴隷として売買している実態や、南蛮の侵略(布教→信徒となった勢力を利用等)を秀吉が知って、
南蛮人締め出しをしたのが実際のところなんだが、そんな事が知れ渡ると、
キリスト教に反感が広まるって事で、そのあたりはすっぱり切られて
秀吉が「キリスト教徒」を弾圧したってなってる。
 
そのあたりの話を知らずに、キリスト教徒を弾圧してたなんて、言いがかりもいいところだ。
 
153 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 14:42:22
>>151 軍事的にはそうだろうな。 でも甘いよ。
人の心の防御壁を崩して、敵を自ら迎え入れさせればいい。
そうすれば、兵力なんてほとんどいらない。
 
なんのために宣教師が世界中に派遣されてたと思う?
誰かがフィリピンの例をあげてたが、まさにそれと同じこと。
 
154 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 14:43:08
その辺を歩いていた漁師や農民に、布教にきた宣教師が言い負かされたりしてたからな。
当時のキリスト教徒は日本をよく思ってなかったろうな
 
宣「神様は常にあなたの側にいるのです」
漁「では、何故、あなたに聞くまで、私は神の存在を知れなかったのですか?」
宣「……」
 
宣「神を信仰する事で、天国に行けるのです」
農「神の存在を知らずに死んでしまった父母は天国に行けないんですか!!」
宣「……」
 
155 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 14:43:57
>>151 あのさー
キリスト教に改宗した日本人がスペインやポルトガル側に付く可能性もあったんじゃないの?
伊達政宗なんて実際、スペインと協力して幕府を潰そうとした…らしいよ。
 
156 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 14:46:00
>>154 これはワラタ
 
157 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 14:49:13
圧倒的な火力を持ちながらなぜ朝鮮出兵で大敗北したんだ  教えてエロい人
 
159 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 14:55:14
>>156 梅干や腐った豆(納豆)を食べさせたり、当時の日本人は宣教師を大変困らせた。

>>157 「明を討伐する。謝礼を払うから道案内しろ」と朝鮮族に依頼
→ 道中、朝鮮族が裏切って日本軍を攻撃 → 日本軍ボロボロになる
→ 怒った秀吉、朝鮮「も」ついでに討伐しろと命令 → 朝鮮討伐
→ 秀吉死去、家康は明(大陸)に関わる気が無かったので以降何もせず
 
朝鮮は「ついでに」叩いただけだ
 
160 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 14:57:12
>>150 確か毎日新聞社から刊行された『発掘の迷路』の下冊で読んだ。
『お湯殿の上日記』では詳細に被害状況が書いてあるけれど、
焼き討ちされたはずの建物の跡から、当時建築物が存在していた痕跡が見つからないらしい。
天海なんかが江戸時代に延暦寺の伽藍整備するために誇大報告したらしいとか。
 
164 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 15:03:52
>>153 日本人相手に未開人と同じ感じで軍事力&布教 → 一瞬にして制圧は難しいぜ
ってフロイスが国に手紙送ってたらしいじゃない。
国のトップが神信じません、本願寺幅効かせまくりの日本にコツコツ草の根布教じゃ時間かかりすぎる。
 
171 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 15:17:54
フロイスは絶対に戦争では無理っていってた プロテスタントカトリックで争ってたからね
 
174 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 15:22:00
大名の切支丹化ってのは交易目当ての形だけの改宗ってのが多かったけどな
 
175 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 15:24:55
そうであっても、次世代、次次世代では完全に浸透する確率が高い。
また、布教の便宜をはかってくれもしよう。 そうなっちゃあ、もうおしまいさ。
 
178 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 15:32:12
キリシタンに日本が支配されていたかもしれないとか、言っている事が馬鹿としか思えないな。
武士がむざむざ手前の権益全て捧げてまでキリシタンになるわけねえだろ。
そんな事があったとしたら、バテレンがくる前に武士じゃなくて仏僧が日本を支配してるわ。
 
179 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 15:32:53
>>154
宣「神様は常にあなたの側にいるのです」
漁「では、何故、あなたに聞くまで、私は神の存在を知れなかったのですか?」
宣「天照大神デウスです。 変わった形で昔から入っているのです。
  今こそ本当の神と本当の教えを信じましょう。」
 
宣「神を信仰する事で、天国に行けるのです」
農「神の存在を知らずに死んでしまった父母は天国に行けないんですか!!」
宣「あなたが信じてあなたが死んで天国に行くことによって先祖は救われるのです。」
 
これが言えなかったために日本におけるキリスト教布教は失敗だったw
>>154氏は当然知ってるが前者は前者は神仏習合本地垂迹説。
後者はゲルマン民族に布教するさいの”煉獄”概念だわなw
 
183 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 15:37:31
>>178 >バテレンがくる前に武士じゃなくて仏僧が日本を支配してるわ。
 
奈良時代末期はまさに「仏僧が日本を支配してる」状態。
その状態から脱却するために遷都を繰り返したんだが。
朝廷の宗教勢力の調整力はかなりのもの。
その旗頭というか象徴というかがまさに天皇だったわけで。
 
184 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 15:37:58
>>1 この記事の注意点
 
1.織田信長からローマ法王に贈った
 織田信長はヴァリニャーノに下賜した。
 意図は安土城の威風を見せることで対等(あるいは有利)な関係を築こうとして。
 恐らく、本国へ報告あるいは実物が輸送される事を期待している。
 
2.天正遣欧使節が献上
 大友宗麟大村純忠有馬晴信戦国大名であり、キリシタン大名
 キリシタン大名は宗教面ではヴァチカンの部下であるから献上で正しい。
 
問題は遣欧使節キリシタン大名が私的に派遣した使節であり、
日本国王織田信長としての外交使節ではないという点。
それゆえ、1行目は「贈った」と書かれているのかなと思う。
 
問題は「屏風も一緒に献上された」と書かれているが、主語が抜けていること。
天正遣欧使節がヴァリニャーノに渡された屏風を献上してしまったのか。
少年なのでうまく丸め込まれてしまったんだろうな。
 
織田信長がヴァチカンに物を「献上」することはありえないと思う。
 
187 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 15:40:29
>>183 後白河法皇でさえ自由にならなかった山法師も信長には屈服。
まぁ、条件も違うが。
 
192 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 15:43:43
聖徳太子桓武帝・源頼朝織田信長・明治の元勲
これらが日本の権力構造を急激に換えたキーパーソンだね。
 
193 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 15:46:06
>>187 ヒント:天台座主
山法師にやられてる振りをしてる間に頼朝にしてやられた、って感じだね。
 
200 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 15:55:11
>>9 ヨーロッパが思い上げるのはもうちょっと後の話。
この時期は、アメリカ大陸じゃひどいことやってたけど、旧世界には、一応尊敬も払ってた。
ザビエル、フロイスの著作を読むとわかる。
 
>>18 若桑さんは、一応、日本じゃマニエリスムバロック美術の権威でっせ。
天正少年使節の本も書いてるし。
 
>>65 「梅干と日本刀」で有名になった話やね。
 
>>179 >日本におけるキリスト教布教は失敗
無知も甚だしい。 キリスト教の布教に失敗したのは、伴天連追放令が出たから。
それ以前には、キリスト教は急速に広まっていた。
そもそも、大衆は理論によって信仰を持つと思っている時点で間違い。
ゲルマン民族の改宗は、ラテン文化圏の圧倒的な物理的豊かさにある。
 
204 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 15:58:45
>>179 前者は言えないんじゃないかな。
神を他のものと同一視するのはキリスト教には難しいと思う。
それに、天照大神デウスなのかと思った人々に、お伊勢参りに出られても困るw
 
206 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 16:06:33
16世紀と17世紀の交は欧州勢力のパワーバランスの転換期。
キリスト教布教を前提としたイスパニア勢力がその頃にはインド〜東アジア衰退していって
(新大陸の経営がメインになったから)、英・蘭・仏がインド〜東アジアで強くなっていったんだな。
フィリピンあたりはもう飛び地化していたので、日本への影響力はかなり低下。
その折りに関ヶ原の戦いがあったので、日本にとっては幸運極まりなかったんだよ。
欧州勢力が関ヶ原の戦いに介入できなかった事実は見逃せない。
 
209 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 16:11:40
日本は鉄砲大国だったかもしれんが、火薬の原料、硝石を輸入に頼ってたんじゃなかったっけ?
 
211 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 16:13:56
>>209 硝石は明からだっけ。
その代わり当時日本は銀の生産が世界一だったので支払いには不自由してなかったけどね。
結局明での銀の価値は暴落して明の衰退の一因にw
 
213 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 16:15:48
>>209 効率は悪いが、尿(肥溜め)から取る方法もあった。
硝石は、鳥の糞が石化したものだし。
 
222 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 16:37:43
支倉常長が西洋行って街を歩きながら鼻をかんでその鼻紙を捨てたら
街の連中が奪い合って拾ったらしい
常長もそれがおもしろくて何度も鼻をかいだフリして鼻紙を捨てたらしい
向こうの文化レベルが知れるよ
 
火薬の質ぐらいじゃないか唯一東洋をリードしてたのは
 
224 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 16:38:20  
>>154 ゲルマン人に布教するときにも、そんな事を言われた宣教師がいたと書いてあった
 
227 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 16:41:47  
ちなみにキリスト教で骨抜きにされた国ってまず軍事力ありきで
僕達の神様は君たちの神様よりも強いよってとこからやられてる。
土着の信仰を力でねじ伏せてからキリスト教を根付かせる感じ。
 
231 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 16:43:51  
>>222 アステカ王国は当時のヨーロッパよりも優れた数学や天文学
インカ帝国は当時のヨーロッパよりも優れた農業技術を有していた。
だがスペインに征服されてしまった…
 
243 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 16:58:17  
>>231 スペイン人が持ち込んだ伝染病、犬が持ち込んだ病気
今でいう細菌兵器に負けたね  あいつらは不衛生が武器だからね
 
数ヶ月の航海で垢だらけのフケだらけで、風呂に入る習慣もない
病原菌の塊のような攻めてくるんだぜ  現代の日本でも勝てる気しないよ
 
245 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 16:58:38  
これたしか、安土城が描かれていたとされる唯一の歴史的資料だよね。
 
254 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 17:07:46  
>>245 例の吹き抜け構造物だったとする説には反対説もあるみたいだったから、
この屏風が本当にあるならかなり貴重な資料になりそう。
 
289 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 17:46:22  
安土城もいいが駿府城も再現してください。無理なお願いなのは分かってますが
 
291 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 17:48:44  
>>289 駿府城かぁ。 見たいねぇ。
でも清洲城みたいな復元例あるからなぁ。 見に行って愕然としたよ。
これはラブホテルかとw
 
307 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 18:25:39  
滋賀県の信長の館に安土城天守閣5・6階部を再建して展示している。
ttp://www.hottv.ne.jp/~bungei/nobu/
 
ところでこの建物は1992年スペインのセビリア万博日本館でメイン展示物として再建された。
そしてなんと、日本館は全パビリオンの内で入場者数No.1を記録している。
当時の欧州マスコミはこの安土城を絶賛し、王冠の中で最も輝くメインダイアモンドだとまで評している。
ヨーロッパ人に「アジアに日本あり」を印象づけたとのこと。
 
311 :名無しさん@七周年 :2007/02/11(日) 18:40:11  
>>307 安藤忠雄の作った奴だなw 漆で朱塗り、金箔張りで突出した美しさだったと言われてる。
再現した天守閣(天守という表現も信長が考えた)も美しいが、
当時は更に金がかかってて塗りが厚かったと言われてる。
 
赤漆は特に高かった。
 
信長は工芸品の保護もかなりやったから。 
武田信玄への進物にも漆塗りが使われてるが、
塗りの厚さが深く12層もあったから信玄が感激したとの書状まで残されてる。
 
321 :名無しさん@七周年:2007/02/11(日) 19:17:17  
贈呈だな。 信長、魔王だし。